うつ病大学院生の記録

研究職志望だけど研究が楽しいかよく分からなくなったうつ病の院生の独り言

人の存在が重要だって話

研究集会で旧友と再会して話してとてもよい気分になったので書く。

自分はそんなに交友関係が広い方ではないけど、何人かは気が置けない間柄の人がいる(と思っている)。

あまり遊びに行ったりはしなくて、会えばいろいろ話したり、ごくたまに飯を食ったりする程度の仲だけど、こちらの鬱のこととかも知っていて、適度な距離感で接してくれるので、感謝している(見られていたら恥ずかしいな)。

 

別に友人というものにこだわらなくても、「世界に自分以外にも人がいて、その人それぞれ人生があって、世界はちゃんと自分も含めた複数形の人々でなりたっている」という事実を、頭でじゃなくて体で心で体感するのが重要だと最近感じる。

うつ状態で鬱の発作みたいになっているときは、自分が世界に一人っきりしかないような感じがするし、大げさだが「世界には自分と研究の2つしか存在しない」みたいな距離感になってしまい、研究のやる気もなくなってしまう。

そういうときに、何でもいいので家の外に出て「外には他の人が日常を過ごしている」というのを体感する(スーパーで話し声を聞く・レジで対応してもらう・買い物する主婦を眺める)だけでも、この世界は自分ひとりで閉じているのではなく、開いた世界になっているという感じがしてきて、少し落ち込みはましになる。

 

精神科の先生にも、(多分安定した生活リズム・習慣を作るとかいう文脈でだったと思うが)、「形式的にでも大学に毎日決まった時間に行って、そこで特に研究や勉強できなくても、大学に人がいて、たとえば喫茶店からぼーっと道行く人を眺めるだけでも、気が紛れてそこまで気分が落ち込まない」という話をされた。ほんとにそうだと思う。

 

何となく気になるのは、インターネット上でも他者は存在しているけれど、インターネット上で他者を見ても自分はつらくなることが多いというのは、現実での他者との邂逅と何が違うのだろうというとこ。多分本来的に人間は生物であるので、動物的な行為(きちんと目と耳とで他の人間の姿を認識する)のが本能の深いレベルに訴えるのであって、インターネット上での他者は抽象化されていて本来性が疎外された状態で自分の世界に現れるのかなあと。

 

また、「他者の存在が必要不可欠で一人だと惨め」というふうに考えてしまうのは陥りがちな歪みだというのも注意しないといけない。もちろん他者の存在は気分をいくぶんか良くしてくれる一つではあるが、自分と他者だけに世界がなってしまうと(特に特定の他者だと)、そこで世界が閉じてしまう。また最近読んでる認知行動療法の本でもあったけど、大抵の人生の喜びとか楽しい瞬間というのは一人でいるときに起こる、というのがある。何かを楽しんだりするのに他者は必ずしも必要ではない。

そういう意味で、自分と他者(そして研究)以外に世界を開く方法として、いろんな自分なりの楽しみを持つことは重要だと思っている。趣味だったり好きな漫画だったりアニメだったりエロゲだったり映画だったり。良くないのは「自分と○○」という二者関係のみに世界がなってしまうことなのであって、いろいろなものとバランスをとりながら、というのとを心がけたい。何かこれ前も書いた気がする。

 

というようなことを書きつつ、研究集会の出張に来ているのであるが、明日からの集会サボろうかなという気になってきておりよくない……まあ適度にサボりつつ気になるのは聞く、という感じで。